昨日から読み始めている対訳読書。村上春樹『風の歌を聴け』を日英の両方で読む。
京都へ出張に行った際、偶然入った大垣書店で洋書コーナーになぜか1時間近くも居てしまった。知っている作品が、母語でない言語で、見慣れない表紙で売られているのが斬新で面白い。村上春樹の作品がけっこうな売り出され方をしていて、土地柄から海外の方向けの訴求もあったのかもしれない。日本人が、日英の両言語で読みたいというニーズもたしかにありそうだった。
『風の歌を聴け』をめぐるエピソードの中に、英語と日本語を往復しながら書き進めたという話を思い出した。それなら初学者のわたしでも、対訳で読めるかもしれないと思ったのだ。
40ある断章のうち、冒頭の1がとにかく美しい。日本語で読んで衝撃を受けたこの部分は、英語でも実にすばらしい文章だと改めて思った。
作中の季節は夏。ちょうどこの時期の出来事について書かれている。作品内の時間軸に合わせて、英語と日本語を往復しながらゆっくり読むことにしている。
英語の勉強をしたい、と生まれてはじめて思っているところ。ほぼ英語の得点だけで大学まで進学し、英米文学を専攻していてなお、わたしは熱心な英語学習者ではなかった。TOEICや海外留学に熱を入れる同級生を片目に、頑なに英語を勉強しなかった。あの頑固さはなんだったのだろうか……
「読書をより楽しみたい」という原理的な欲求によって、10年越しに英語学習の旅へ。
対訳読書は面白い。必然、スローな読書になる。
置かれたテクストは変わらない。変わらないはずなのだが、文章から受ける印象はこうも違ってくるものなのか。別の窓から物語を覗いているような、そんな感じ。
語彙を増やしたい。たくさんの言葉を知りたいと素直に思っている。こんな未来が来るなんてなあ。
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いま読んでいるペーパーバックは、どこかのタイミングで共同書店 編境 @henkyo_books の棚に並べようかと思っている。関わりはじめてから1年ほど経って、ようやく棚の編集が楽しくなってきた。
誰かの書棚を覗くこと。自分の書棚を覗かれること。大垣書店で感じたことがまさにそれかもしれない。メディアとしての洋書コーナーが、それ自体けっこうな読み応えのある棚として存在していた。あるいは、『花束みたいな恋をした』のワンシーンに通じるものがあるのかも。
日記もそうだ。覗かれる生活。覗かれる思考。覗かれるために書くという行為について。