いつの時代も本質を見失わずに生きていくこと。
「バカ」を避けつつ「バカ」でいること。
こんにちは。しましまこと髙島聖也(@seiyatakashima)です。
久しぶりの投稿は本の感想。
社長夫妻のおすすめ本
先日、知り合いの社長夫妻とごはんを食べているときのこと。
「この本よかったよ」
そう薦められたのが堀江貴文(@takapon_jp)と西野亮廣(@nishinoakihiro)の共著『バカとつき合うな』だった。
2018年は信頼できる人が「よかった」と評価した本を片っ端から読むようにしている。
その日はなるほどという相槌と共にKindle版をポチり、今日の夕方から読み始めた。
さくっと読める本だ。
わたしはKindle版の書籍とiPhoneを使って本を”聴く”のだが、3時間もかからなかった。
通勤と夜の散歩の時間で読了。
ふたりの著者について
さて、本の内容に入る前に著者についてひと言だけ。
元ライブドアで現在さまざまな事業をプロデュースするホリエモンこと堀江貴文。
芸人でありながら絵本作家として名を挙げたキングコングの西野亮廣。
この二人についてどのようなイメージをお持ちだろうか。
どちらも常識に縛られず、社会に大きなインパクトを与えていること。
ひとつの仕事や肩書に囚われず、興味関心の向くままに新しい事業に取り組むこと。
そして、熱狂的なフォロワーの声と、それに負けないくらい多数の批判が常にネットを賑わせていること。
…とまぁどちらのファンでもアンチでもないわたしはこのような印象を抱いているわけです。
あなたはどうお考えだろうか。
ここ2年くらいの間に、ホリエモンの『多動力』や西野亮廣の『革命のファンファーレ』に影響された同世代はけっこういる印象。
そういった彼らのフォロワーは、もうすでにこの本を読んでいるでしょう。
なのでわたしから言うことは何もありません。
ふたりにあまり良い印象をもっていなかったり、そもそも無関心であるという方。
そういった方は、もしかしたら一読の価値があるかもしれない。
なぜなら、この本は強い力で人々を一方向に向かわせるものでもなければ、明確な指針を示した教典ーーあるいは宗教本でもないからだ。
そういう意味では少しだけ高い言語能力と読解力を求められる本でもあると思う。
「バカ」を定義すること
この本は二人の著者が「バカ」ということばをテーマに、社会の良い部分悪い部分を多角的に論じた一冊だ。
詳しくは本書を読んでいただければわかるし、あるいは堀江貴文や西野亮廣の著作やweb上の発言に触れている人なら読まずして内容を推し量ることができるだろう。
各単元の文章が言いたいことも決してわかりにくいものではない。
一読して興味深く感じられたのは、本書のテーマである「バカ」の考え方だ。
この本は「バカ」を一元的に定義するものではない。
タイトルを読む限り「バカ」とはつき合ってはいけない、または「バカ」とはつき合ってられないということを言いたいことはお分かりかと思う。
ただ、その「バカ」に類する人を明確に決めつけているわけでもないし、「バカ」それ自体が悪であると言い切ってもいない。
各単元において「バカ」ということばの意味する領域が若干異なる。
だから、読者は今話されている「バカ」はなぜ「バカ」なのかを常に考え続けなければならない。
本質的であれ
では、本書が伝えたいことはなにか。
わたしが思うに、それは「本質的に生きろ」ということではないかと思う。
常識に囚われないという意味の「バカ」。
マイノリティーの立ち位置を取る「バカ」。
未踏の地を裸足で行くタイプの「バカ」。
社会に価値を生み出し続けるためには、常識のフリをした非常識を見抜く「バカ」でないといけないし、常時闘い続けるために手を動かし足を動かし頭を働かせ続けられる「バカ」である必要もある。
そして、悲しきかな、本質的でないタイプの「バカ」はこれまでもこれからも常にあなたの近くに存在し続けるのだ。
行動量とスピード、深い思考を続ける「バカ」であれ。
そのためには世間に揉まれて本質を捉えそこねる「バカ」になってはいけない。
いつの時代も本質を見失わずに生きて欲しいというのが著者の二人のメッセージではないだろうか。
おわりに
「読書は対話である」というのが大学時代、文学部で学んだなかでも数少ない、今に生きている考え方です。
本と向き合っている間は著者を否定せず、彼の思考をなぞり共感を向ける。
読後に主観と練り合わせ、別の物事に転用する。
読んだだけでは意味がなく、じぶんの思考と掛け合わせることが何より重要であると。
文学部を出て良かったなと心から思っています。
読書って、他人と生きていく手段だよなぁ。