平成生まれが時代を共にしたミュージシャン30選と物語未満集

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今日は平成31年4月30日。いわゆる「平成最後の日」だ。平成の今上天皇が「生前退位」を決められたため、時代の節目だとあちこちで祭りらしい盛り上がりを見せている。

世間では10連休だと騒がれているが、わたしは今日も平常運行で出勤していた。都合上クルマに乗っていることが多いのだが、今日はどのFM局も「平成最後の」を枕詞にしみったれたムードが漂っていた。

「平成と共に生きた名曲たち」的な特集を聴いているときに思った。わたしたちの31年間は、ベストヒットに紐付けられるような画一的なものじゃない。みんなそれぞれの思い出やエピソードをこの時代の中で生み出してきているし、それはオリコンチャートというマジョリティに定義されるものでもない。

一人ひとり、それぞれ思い入れのあるミュージシャンがいるし、その1曲1曲に各々の記憶が結びついているんじゃないの?

 

というわけで、平成3年生まれのわたしがこの時代をどういう楽曲と共に生きてきたか、それがどういうストーリーに紐付いているのかをざっと書き出してみました。

これ、読み返すとただの羞恥でしかない。でも気にしない。恥ずかしさは平成に置いていくのだ。

ルールは下記のとおりです。

 1. 平成時代に活動していたミュージシャンであること
2. 日本国内で発表された楽曲であること
3. わたしの(恥ずかしい)思い出と共にあること

これらに該当するミュージシャン30組から、特に印象深い100曲を選曲いたしました。100曲です。アホらしいでしょう。全部聴き通すと7時間半です。

記事の最後にApple Musicのプレイリストを載せています。誰得なのでしょうか。いやしかし名曲ばかりを集めました。シャッフル再生がオススメです。なにせ7時間半。

 

それではミュージシャン30選+しみったれた物語未満をどうぞ。

 

きのこ帝国


コンビニエンスストアで350mlの缶ビール買って、深夜に素敵な異性と夜の散歩したことはありますか?わたしはある。

きゃりーぱみゅぱみゅ


いつかの宴会で「きゃりーぱみゅぱみゅとセカオワのfukaseは大人たちの陰謀に巻き込まれ、資本主義の生贄になっている。こんな社会でいいのか」とくだを巻いていたらしい。全然おぼえてない。

くるり


曲の雰囲気とは不釣り合いなゴテゴテのフライングVを引っさげた、出版社でオシャレな雑誌を手がけていた2つ歳上の先輩が、憎らしいほど上手に『街』を歌い上げたあのライブハウスはどの街のどのハコだったか。

サニーデイ・サービス


「こんな歌詞は逆立ちしても書けっこない」と生涯を通じて敗北宣言をしているPart1。

スーパーカー


リードギターのいしわたり淳治が書いた『うれしい悲鳴をあげてくれ』という小説のようなエッセイ集のような、ふしぎな書籍が好きだ。これまで友人の誕生日の度にプレゼントとして送り、累計でいうともう20冊くらい購入したかも知れない。読んでほしい、というよりは、これを読んでどう感じるのかを聞かせてほしい、という思いで人に勧めている気がする。

彼らが『スリーアウトチェンジ』を制作していた年齢を、わたしはもうずいぶん過ぎてしまった。同年齢くらいのときには、この楽曲に描かれているような豊かな感性を持っていたのかもしれない。でももうずいぶん過ぎてしまったんだ。

スピッツ


初めてのスタバで初めての失恋をした新興住宅地での一コマも、「来年もこの人が生きていられますように」と不毛な願掛けをした下町の出来事も、離れたくないから自ら去ったあの朝に泣きすぎて電車に乗れなかった新宿の朝も、とにかく人生でいちばんつらいと思う瞬間に何故かいつもスピッツを聴いている。

いつも「これ以上悲しいことなんか起こりっこない」と思いながら、今はほとんど笑い話みたいになってる。悲しいところは全部曲のせいにしてわたしはごきげんに生きていくのだ。

NUMBER GIRL


『IGGY POP FAN CLUB』が好きすぎて、もうここ10年くらい夏になると「あの部屋で同棲していた彼女は今なにしてるのかな…」と空想しているのだけれど、そんな体験は一切ない23歳まで実家暮らしのわたし。

フジファブリック


好きで聴くようになってからかなり長い時間が経った後、このバンドの曲をコピーすることになった。有名バンドのフロントマンが死ぬこともある、という事実をよく認識できないまま、淡々と曲をおぼえて披露したような気がする。これ自体はあんまりおぼえていなくて、『銀河』『ロマネ』あと1曲なんかやったっぽい。

それから更に長い時間が経って、昔好きだった女の子と飲んでいたら店のBGMが『ロマネ』だった。いやいや、『若者のすべて』とか『赤黄色の金木犀』とかなら分かるけど『ロマネ』って。そんなこと思いながらしみじみ楽曲を聴いていたら、かつてなんとなく歌ってた歌詞が妙に染みて、しかも昔好きだった女の子が目の前にいて、エモさが爆発しそうになったわたしはついおどけて「これ、もしかしてモニタリング?」などと言った。その日のことも今では夢っぽい。

andymori


自宅から高校までは自転車で20分ほどで、平成19年から22年までいわゆる「チャリ通学」だった。途中コンビニに寄ったりすると40分くらいかかる。andymoriの『ファンファーレと熱狂』は13曲も入っているのに36分で一周する。良く言えばのんびり屋のわたしは道草しすぎて遅刻しないように、このアルバムを聴き終える前に校門をくぐれるようにと自制していた。卒業前の数ヶ月間のことである。

36分のアルバムにしてはものすごい量の歌詞を歌い捨てるようなスタイル。ところどころに散りばめられた世界各国の固有名詞を拾いながら、いつかは世界を旅してみたいなと考えたりもした。大学受験をテクニカルに終わらせてしまったわたしには、とにかく時間があった。誰も遊んでくれない高校3年生の2月、海外に思いを馳せながら時給750円でコンビニのレジ打ちをやっていた。

Fishmans


上野のビアバーでアルバイトしていたことがある。ドラフトのタップを洗浄するときにグラス1杯ほど、管に溜まっていたビールが出てくるのだが、タップが複数ある都合で毎晩大量のビールが余った。バーテンの先輩とそれを嗜みながら終電を待つことが多かった。

その先輩はなぜかフジロックに出たことがあったり、不思議な女性関係を抱えていたりと20歳そこそこのわたしには輝いて見えた。Fishmansをイヤフォンから流しながら、ワインクーラーとして使っていたステンレスのバケツに入れると音が反響してスピーカーみたいになることを学んだ。3種類のベルギービールを二人で回し飲みながら、彼は帰りの夜道で吸う用の紙巻きたばこを準備する。憧れの先輩は酒の弱い酒好きで、正味300mlも飲むと顔を真赤にして「たばこは人類の退廃文化の象徴だ」とかなんとかさけんでいた。

GO!GO!7188


おそらく原曲を聴くより、誰かがライブハウスやカラオケで歌うのを耳にするほうが断然多かったミュージシャン第一位。次点で椎名林檎。

GRAPEVINE


「こんな歌詞は逆立ちしても書けっこない」と生涯を通じて敗北宣言をしているPart2。

KIRINJI


わたしは千葉県の船橋市で育ったのだけれど、KIRINJIの二人も似たようなベッドタウン出身じゃないかなと思っていた。埼玉県坂戸市らしい。よく知らない。そこには前原団地や高根公団みたいな集合住宅がたくさんあるんだろうか。

Nujabes


ケータリング込みの出張バーテンダーのアルバイトをしていた頃がある。主に企業向けのパーティーに出向き、料理と酒を振る舞う。食べ物はビュッフェ形式で並べ、ドリンクは即席のバーカウンターを作る。

ケータリングの仕事は時間勝負の飲食業の中でも変わっていて、基本的に個人技だ。シェフや給仕長と連携することもない。じぶんで全ての段取りを組み、搬入から提供、撤収までを行う。「じぶんの裁量で仕事を進める」という体験を学生時代に経験できたのは本当に良かった。

店から渡されていたBGM用のCDがどれも今一つで、じぶんのiPhoneをつないで好きな曲を流していた。会の雰囲気によってDJよろしく選曲をするのはとても楽しい。10名前後の集まりではいつもNujabesを流していた。それ以上だと素晴らしいトラックが消されてしまう。神田御茶ノ水にある19Fのホールで、パーティーの片付けが終わった後、ゲストからいただいたガラムの残りを吸いながらNujabesを聴いていたのは平成25年頃か。

Perfume


高校大学と愚直にコピーバンドという遊びを続けていると、バンドサウンド以外は邪道な気がしてくる…というのはわたしだけかも知れないが、要するにPerfumeはわたしにとって「恥ずかしい趣味」だった。ピエール中野が強く推すのを唯一の支えに、背徳を感じながら毎年新曲を楽しみにしていた。なお、過剰な自意識でバンドサウンドを特別視していたのはわたしくらいで、当時のサークル仲間はもっと自由に音楽を楽しんでいたようだ…

「Perfumeなんて初音ミク以上に人外の存在だ」などと飲みの席でのたまいながら、家までの帰路でこっそり『マカロニ』を聴いてニヤニヤしていた。禁酒法時代のアルコール摂取はきっとこんな感じだったのだろう。平成26年に初めてライブで、この目で、のっちが実在することを確認したときは心が震えた。

RAG FAIR


初めて買ってもらった「じぶんのCD」がRAG FAIRだった。デビューアルバムの『AIR』をわたしはSONYのウォークマンで何度も何度も聴いた。一時的な「ハモネプ」のブームが緩やかに去って、火付け役だった彼らも徐々に世間から忘れられていった。いつもなんとなく流行に乗り遅れるわたしは、RAG FAIRを聴き続けるというカタチで時代から遅れていた。

「布団に口を押し付けながら歌う」という集合住宅育ち独特の気遣いをおぼえながらーー今思えばそれは発声練習だったーー弟と同室の自宅でわたしはよく歌う子だった。そして間もなく高校に入ると楽部で本格的に歌い出す。その頃にはMDを経てiPodで音楽を持ち運ぶようになるのだが、特訓のせいか、彼らのファーストアルバムは未だに全曲そらで歌える。

Spangle Call Lilli Line


バンド名も歌詞も全然おぼえられないまま、先輩に誘われるがまま『cast a spell on her』をライブハウスで演奏したことがあったような気がする。今はバンド名をすっかりおぼえてしまったが、歌詞だけは未だに何のことを歌っているのか全然わからない。今後もわかりそうにない。

THEE MICHELLE GUN ELEPHANT


大学のあった池袋でフラフラになるほど酒を飲み、山手線と総武線を乗り継いで最寄りの駅まで帰る。当時0:20池袋発に乗り、途中でくじけることなく帰ってこれれば1:20に津田沼駅につくことができた。ちょうど1時間である。

1時間ほど正気を保とうとすると、いい感じに酔いが醒めて津田沼につく頃には歩いて自宅まで帰ることができるようになる。『カサノバ・スネイク』がちょうど1時間くらいで、最寄りにつく頃には『ドロップ』が流れる。終電にうってつけの曲だと思う。

阿部海太郎


京都が好きな人と一緒に、夏の終わりの旅行を計画した。平成26年の京都は残暑が厳しくも、カラッと日差しの気持ち良い9月だった。旅はその土地に精通している人と共に行くか、全く知らない地域を独りで巡るか、どちらかが面白いと思っている。京都の文化と最新のカルチャー、美味しいグルメに通じた人との旅は本当に充実していた。

品川駅で帰りの新幹線を降りて、カフェで旅の思い出話をしながらずるずると旅行気分を延滞していた。軽やかなピアノが印象的なBGMは「D-BROS」の手がける「ホテルバタフライ」のテーマソングだと言う。阿部海太郎という作曲家を知ったのはその時で、ぜひコンサートが開催される暁には一緒に行こうと提案した。名残惜しい旅を終わらせるには、その次に楽しみな予定を取り付けるしかない。品川駅の「D-BROS」はもう閉店している。

銀杏BOYZ


男の子は誰でも銀杏BOYZに育てられる、と思い込んでいたのは20代の前半くらいまでで、男の子はいつまでも銀杏BOYZなのかもしれない、と思い始めたのは30歳を目前にした今です。17歳から精神年齢が変わらない。

七尾旅人


姿勢が好き。彼に至ってはほとんど曲を聴いてない。七尾旅人を「ミュージシャン」という枠に当てはめるのは安直過ぎる気がする。

柴田聡子


平成の終わり頃、唐突に現れてわたしの耳を独り占めにしてしまった柴田聡子のことを絶対に許さない。ただでさえ女心のわからぬまま27年も生きてきてしまったのに、彼女の曲を聴くと更に理解しがたいものに感じてしまう。なんやねん女心。

平成の終わりに新曲も出ました。本当にありがとうございます。

小沢健二


平成28年あたりで空前のヒットを叩き出した燃え殻著『ボクたちはみんな大人になれなかった』。平成を縦横無尽に駆け巡りながら「誰でも経験する、当たり前の恋愛」に胸を打ちつつ、平成3年生まれのわたしは「平成」それ自体を半分も知らないのかもしれないという思いに駆られた。SPEEDの熱狂もオザケンの流行も知らない。当時の渋谷は今の渋谷とはまたちがうんだろうな。わたしがオザケンを聴くのは、ほとんどビートルズを聴くような感覚に近い。

神聖かまってちゃん


7〜8年コピーバンドを演る中で、唯一ベタ褒めされたのが「の子」のコピーだった。夏に軽井沢のスタジオ付きペンションで演奏した時やたら好評で、コピーながら初めて「音楽で食っていけたらな」と思った。

その後妙な縁で、一瞬その道が照らされたようなときがあった。でもわたしは「音楽で食っていく」ということ、いや「じぶんが将来何をして生きていくか」ということをあまり考えられずにいた。そうこうしているうちに不慮の事態により、メンバーの一人が亡くなった。あの時なんで本気で取り組まなかったんだろうと今でも後悔している。ずっと悔しさだけで生きてる。「いつでも好きなことをやっていこう」ということだけを念頭に置いている。もうあんなに悲しい思いをしたくない。

相対性理論


平成20年の夏、「とりあえずこれを聴け」とiPod nanoから伸びたイヤフォンの片方を耳に入れた瞬間からわたしは声フェチです。『シフォン主義』を歌うやくしまるえつこは当時、顔を顕わにしていなかった。でもわたしたちはその声を聴いて、この声帯の持ち主は美少女に違いないと盲信した。どうしようもなくモテない17歳だった。

東郷清丸


仕事から受ける強烈なプレッシャーと、じぶんの能力不足に落ち込んで半月くらい寝込んだ平成29年、わたしと社会とのつながりはスマホ1台しかなかった。ごはんもロクに食べられない状態で、妙な病院嫌いを発揮して文字通り伏せることしかできなかった(よく生きてた)。

その頃知った東郷清丸は同じ平成3年生まれで、ちょうどファースト・アルバム『2兆円』をリリースしたところだった。全60曲収録のバカみたいな処女作だ。「じぶんで価格をつけるとしたら2兆円です」みたいな文言と共に売られていた。あまりのアホらしさに買った。¥2,160だったと思う。本当に馬鹿らしい。次の日から元気に出勤した。

King Gnu


平成のJ-ROCKはKing Gnuがすべて食べちゃった。誤魔化しだらけのオルタナティブは常田大希がいる限り令和では通用しないんじゃないか。個人の感想です。

折坂悠太


それまでも何度かその名前を耳にすることはあってもスルーしてきたが、アルバム『平成』のジャケットはどうにも目が離せなかった。なんだろうあの心が不穏になる感じは。そして楽曲の表現力の素晴らしさよ。

平成最後の4月30日、最後に聴いたTOKYO FMに出演していた彼が「『平成』はセルフタイトルみたいなもので、ぼくが平成元年生まれだから」という話から平成生まれの共通項のなさ、平和だったと言われるこの時代の孤独に言及する様は全要素に共感した。

ハンバートハンバート


平成27年に茨城県稲敷市に移住を決め込んで、慣れない庭付き平屋建てのアパートでローカルどっぷりの生活に身をやつしながら、もう二度とハードロックとかは聴けないのかもしれないとそういう心境で1年くらい過ごした。休みの日には縁側で電子音の少ないハンバートハンバートなどを聴きながら、田舎暮らしの真の敵は伸びゆく雑草なのだと悟った。

LUNKHEAD


わたしの青春はBUMP OF CHICKENでもRADWIMPSでもHYでもなくてLUNKHEADでした。

おわりに

いかがでしたでしょうか。

じぶんで読み返してみて思ったのだけれど、これ、エピソードが邪魔で楽曲の情報がほとんど入ってこないな…?でもいいのです。たまにはこういう自分本意な記事も書いてみたかった。ラジオでも「しましま式ライナーノーツ」というコーナーをやってます。これも「じぶんの本当にオススメできるものを、好き勝手紹介する」というもの。

国内に関わらず、よく音楽を聴いた平成時代でした。わたしは音楽と出会えて、幸いにしてずっと好きでいられて、本当に良かったと思っています。映画や小説、漫画などあらゆる文化的なものを愛しているけれど、音楽は格別ですわ。

もちろん今回は国内かつエモいエピソードに付随したものばかりを取り上げたので、だいぶ偏った編曲にはなったけれども…しかし100曲分の物語”未満”が並ぶともう正気ではいられません。もちろんこれはわたしだけでしょう。なぜならわたしの記憶と結びついているからです。

みなさんの平成はどのようなものだったでしょうか。もちろん、これで平成時代というものがなくなってしまうわけではありません。いつまでもカルチャーは個々人の物語に密接したものである、とわたしは思います。音楽がそれらのエピソードに紐付いている限り、いつでも平成に帰ってこれるです。時代が変わっても、みなさんの「平成」が素晴らしいものであり続けますように。

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