「わかりあえなさ」に気づく30歳。それゆえ人生は生きやすい。

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この店で「年齢が確認できるものをお見せください」と言われたのは2ヶ月間で3回目だった。

健康と美しさを販売するドラッグストアで、ぼくは酒ばかり買っている。

マスクで顔が見えないから、酒類の販売にあたり厳しく年齢確認をしているらしい。

「お手間を掛けてすみませんね」「いやいやどうも」なんてお互いにヘラヘラしながら、ぼくは財布から運転免許証を取り出す。

免許証の上部でふたりの視線が交錯した。

日付はその日とまったく同じ、6月14日。年号はちょうど30年前。

ぼくは30歳の誕生日を、ドラッグストアで年齢確認されるなどして過ごした。

「自分はからっぽなんだな」

30歳になりました。

SNSネイティブなわたしたちにとって、人生の節目となるタイミングではインターネットに“お気持ち”を表明するものだという妙な意識があります。

そこでわたしも例に習って、いやむしろ例を率先する形で、30歳を迎えるにあたり思うことや感じることを書こうと思った。

 

誕生日のひと月前からPCに向かったものの、当日を迎えても完成することはありませんでした。そこからさらに今日まで3ヶ月以上が経過している。

毎週時間をとってデスクに向かうものの、書いては消し、消しては書き、ぢっと手を見る。

石川啄木は生活苦を短歌にしたが、高島聖也は誰も待ち望まないライフログ書き直し続けた。

 

日々WorkFlowyに向かって手を動かし続けた結果*1、どうやら見えてきたものは「わざわざ自分の言葉で伝えたいことなんてあまりないな」ということ。

「伝えたいことはすでに誰かが言葉にしている」とも言い換えられそう。『読みたいことを、書けばいい。』を地で行くスタイル。

クソリプとヘイトにまみれたSNSで疲弊した現代に、わたしが改めて書かなければならない“お気持ち”なんてほとんどないんじゃないかと。

 

そこで自分の感想と同じポイントを、だれかの手で自分より豊かな語彙で書かれていたり、自分が感じた疑問点について、なるほどと膝を叩く考察があますことなく展開されていれば、あなたはいまさらなにも書く必要はない。

田中 泰延『読みたいことを、書けばいい。』ダイヤモンド社

わたしは一般的な社会人の方々より日々手に取る書籍が多いと思います。毎月30~50冊くらい読む。

仕事柄必要なものが半分、趣味半分という内訳です。そんな暮らしを7~8年続けていると、ますます“自分らしい”言葉なんて存在するのかと疑り深くなる。

でもそれは、決して悲観的な態度ではありません。

 

「今、いろいろ文章を書いてみているんです。でも、文章を書くと、ああ、自分はからっぽなんだなって思い知らされるんです」

僕は思わず加藤さんにそう漏らしました。

そんな僕の取るに足らない愚痴に、加藤さんはこうおっしゃいました。

「文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ」

(中略)

「自分はからっぽ」ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰からかもらったものだ、ということです。他者からの贈与が、自分の中に蓄積されていったということです。

近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』NewsPicksパブリッシング

「わざわざ自分の言葉で書くことはない」というのは、ある意味で救いです。わたしの悩みは、すでに誰かが答えを出している。

悩んでは本を読み、人と話す中で、「他者からの贈与」を獲得してきたのだという確かな実感があります。

 

大学を卒業して以降も楽しみながら学びを深めていった結果、人生はより生きやすくなっている。

「生きづらさ」がさけばれる昨今ではあるけれど、わたしはこの10年で確かに「生きやすいな」と感じています。

 

今日は、これまで見聞きしてきた言葉をヒントに、30歳の今感じている「生きやすさ」について考えてみます。

何度も言いますが、わたしが、わたしの言葉で発信したい内容なんてほとんどありません。

そんな30歳時点の“お気持ち”があってもいいじゃないか、という姿勢こそ、20代の間は思いもよらなかった変化のひとつです。

「筋肉の使い方が変わってきた」

ひとつ歳上の先輩とアラサー事情について語っていた際、「最近は筋肉の使い方が変わってきた」という言葉が印象的でした。

仕事のしかたや、日々の暮らし方、他者とのコミュニケーションなど、20代前半の頃は慣れないことすべて全力で対処していたため、思えば毎日疲れていた。

ここではあえて抽象的なまま残しておきますが、かつてと比べて明らかに、生きる上で必要な“筋肉”のうまい使い方が身に付いてきたと感じます。

 

この“筋肉の使い方”、ギターの練習に似ています。

初心者に立ちはだかる最初の壁はFコードと言われてますが、これは弦を力づくで押さえればいいというわけではありません。最初は難しい。

今までしたことのない指のカタチに戸惑うけれど、1ヶ月ほど練習すれば、ある日自然に鳴らすことができるようになります。

これこそ「筋肉の使い方」がわかるというものです。

 

ギターの例がわかりにくければ、自転車の乗り方でもいい。

体のうまい使い方に慣れると、その後も難なく操作することができます。

いちいち考えず、無意識に体が動く。

 

また、筋肉の使い方がわかると、それ以外の領域へ応用することもできます。

ギターのFコードが弾ければ、バレーコードの原理がわかるようになる。すると、一挙に鳴らすことのできるバリエーションが広がるのです。

 

これと同じような原理が仕事や家庭生活にも当てはまります。

20代前半の頃に苦労して得た経験値が、新しい課題やはじめてのタスクに向き合う際に作用するときがある。

これが先輩の言う「筋肉の使い方が変わった」ということなのかなあと理解しています。

 

別の見方をすると、これは「習慣」の話でもあります。

わたしたちの生活のうち40%以上が「その場の決定」ではなく「習慣」だといわれています。その都度いちいち考えずに動くことができる、ということが習慣の力です。

「筋肉の使い方が変わってきた」というのは、仕事や生活を助ける習慣が形成されてきたことなのかもしれません。

 

習慣についての解説は詳しい本におまかせ。悪癖をやめたい人、なにかを継続したい人に大変オススメの1冊です。

「わかりあえない」からはじめる

こんな話をすると、「そうか!しましまは30代までにいろいろなことが“わかる”ようになったんだね!」と思われるかもしれません。

 

逆です。

わたしは最近、仕事をすればするほど、本を読めば読むほど、他者と話せば話すほど、いろいろなことに「わかりあえなさ」を感じるようになりました。

 

思い返せば20代の地域おこしやソーシャルセクターでの活動は「わかりあいたい」を前提にした仕事が多かった。

地域は、社会は課題であふれている。みんなで集まって、話し合えばお互いのことが“わかる”。そこを目指そう。

わかりあえたみんなの力で、みんなの課題を解決しよう!

そんなアプローチをしていました。

 

劇作家の平田オリザ氏の言葉を借りれば「コンテクストのずれ」、経営学者の宇田川元一氏に言わせれば「ナラティヴの溝」

それぞれの背景や社会の見方が異なるから、一様に「自分はこの課題を解決したい!」を伝えていてもうまくいきません。

相手には相手のナラティヴ=物語がある、ということをよく認識しなければならない。まずは相手の側のナラティヴに寄り添っていくことが肝要だ。そこがわかっていませんでした。

 

ポイントは、どちらのナラティヴが正しいということではなく、それぞれの立場におけるナラティヴがあるということです。つまり、ナラティヴとは、視点の違いにとどまらず、その人たちが置かれている環境における「一般常識」のようなものです。

こちら側のナラティヴに立って相手を見ていると、相手が間違って見えることがあると思います。しかし、相手のナラティヴからすれば、こちらが間違って見えている、ということもありえるのです。こちらのナラティヴとあちらのナラティヴに溝があることを見つけて、言わば「溝に橋をかけていくこと」が対話なのです。

宇田川元一『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』NewsPicksパブリッシング

 

人並みに失敗を繰り返してきた20代でした。

同時に、仕事面ではプロジェクトの進行やチームマネジメントを任せていただいた。生活面では育ってきた環境がまったく異なる方々と親密に暮らす日々でした。とても貴重な、かけがえのない経験です。*2

その中で、「わかりあえなさ」からはじめるコミュニケーションの大切さを身にしみて理解することができました。

「わかりあえない」からはじめることと、「わかりあえるだろう」を目指してコミュニケーションを設計することは、決して矛盾しない。

わたしは過去、後者ばかりを意識していて、大事な前提を考えてこなかったみたいです。

これに気づいて、人生はかなり生きやすくなりました。

おわりに

冒頭に書いたドラッグストア、年齢確認が厳しいとはいえ、明らかなミドル~シニア層にはもちろん身分証の提示をお願いしていません。

つまり人を見て判断している……とすると、ここにも「わかりあえなさ」が存在しているようです。

 

30歳を超えてなお未成年飲酒を疑われるのは、ちょっとしたエンターテインメントでした。

ここでイライラするか、わかりあえなさを楽しむか、それはスタンス次第だなと。

「わからん!」という感覚は、楽しいものでもあるんですよね。真面目に勉強してきたタイプなので、これも新たな発見です。30歳まで勉強続けてきてよかった。

 

「わからん!」といえば、最近アート思考に触れることが増えました。自分の中の「偏愛」「こだわり」「いびつさ」からはじめるアプローチ。

アート思考も、わからないこと、わかりあえないことに価値を見出すスタンスかもしれません。

自分にはわからない、想像もできない多様性に出くわしたとき、笑顔で「わからん!」と言い続けられる日々を送りたいものです。

*1:「書けなさ」に絶望したわたしを救ってくれたのは『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』でした。この本はマジでやばい。企画書が、イベントのLPが、ビジネスメールが、Twitterが、とにかくすべての「書く」という行為が驚くほどスムーズに、そして高い精度で行えるようになりました。本書で紹介されている関連本を10冊くらい読む中でWorkFlowyに出会ったわけですが、今では朝から晩まで一緒に「考えて書く、書いて考える」の相棒となっています。ありがとうWorkFlowy!この記事もWorkFlowyで書いています。

*2:今回は「筋肉の使い方=習慣」と「ナラティヴ」、「わかりあえなさ」をリニアに並べましたが、ここには協力な結びつきがあると考えています。習慣がそれぞれのナラティヴを形成するとしたら、わたしたちの「わかりあえなさ」は概して言えば、習慣のちがいから生まれているのではないでしょうか。これはそれなりに多い転職経験や、それなりに乏しい恋愛経験から「わかりあえなさ」の発端は習慣にあるだろうなと。いつかまた記事にまとめます。

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