今の家に越してきて1年ほど。
ちょうど引っ越したばかりの時期に「徒歩5分くらいのところに川があるな」と思って、ならばランニングでもしてみようかとワークマンに駆け込んだ。
一度走ってみたら、それは確かに爽快で、心地よい疲労感もあり、また音楽に没頭するという意味でも良質な時間で「これはよいな」と思って、それきりランニングはしなかった。
ふいに思い立ち、朝の5時頃に起きて近所の川沿いを走る。
そのときのワークマンシューズを履いて、最近よく聴いているCULTIBASE Radioを流しながら30分ほどゆっくり走った。
川沿いに暮らす魅力みたいなものをもうちょっと感じていこう。
と、ここまで書いたところで「もしかしてずっと川沿いに住んでいたのでは?」と思いGoogleフォトを探ってみる。
川の写真ばかりであった。
川沿いにばかり住んできたのか、あるいはこの国は川ばかりなのか。
・・・
仕事場に行き、スタッフと今期のイベント計画などについて相談を受ける。
組織内に、潜在的起業希望者≠起業家についての理解と提供サービスの専門知が高まっていることを感じてとてもうれしく思う。
一方的な情報提供を目的としたセミナーの企画については慣れたものだ。
安心して進めてよいとお伝えした。
と同時に、知の探索を深めていく必要性をおぼえる。
それはワークショップデザインであり、組織ファシリテーションであり、それらを担うコミュニティマネージャーの教育とモチベーション管理だ。
『両利きの経営』にあるような「知の探索」「知の深化」を並行してやっていく組織開発のことだ。
ありがたいことに、それを一緒に進める人材は増えつつある。
時間やお金のマネジメントを考えるのはわたしの仕事。
そんな優秀な人材たちは今日も雑談が絶えない。
「わたし、桓武天皇の末裔で鬼怒川姫の血を引いてるんです」
鬼怒川姫、おとぎ話っぽい。
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帰り道、住宅地の路地にダッフィーが落ちていた。
正確には、道沿いの生け垣に行儀よく座らされていた。
ボーダー柄の、少し大きめのニットを着ている。
それを見た瞬間わたしは泣いた。
きっととても愛されているぬいぐるみであろうことや、お出かけにも持ち歩くくらいの友だちであること、落としてしまった哀しみや、それを拾って座らせた人の優しさ、それらすべてを一瞬で想像しておれはただ泣いた。
特徴的な服を着ていたし、そこまで人通りの多い道でもない。
落としたことに気づいた持ち主によって、今は回収されているかもしれない。
彼がいつもどおりの夜を過ごしていますように。
道に落ちていたぬいぐるみを見たときの気持ちと、鏡のような短歌に出会ったときの気持ちはだいたい一緒っぽい。
感情が揺さぶられる、その瞬間風速はすさまじいものがある。
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それでなんらか短歌を読みたくなって、瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』を開く。
2020年以降の現代短歌を、コラムで解説するアンソロジー。
最近は短歌を構造的に理解したいと思い、こういったアンソロジーやムック本をよく読んでいる。
いろんなことを構造的に理解したいという欲求が、おそらく人よりはだいぶ強い。
それでクラフトビールや日本酒も、どちらかというと「理解する」ことを目的に飲み比べたりする。
音楽や映画も、前後の文化的背景をふまえてどこに位置づけられているか考えがち。
そればかりではすべてに意味を見出すようになってしまい、とても疲れるので「読み捨てる」ような読み方も必要と思いはじめている。
「おまえを読み捨ててやるぞ」というスタンスで、どうしても捨てられない読後感のあるものを抱えて生きたい。
「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ(松村正直『やさしい鮫』)
中間試験の自習時間の窓の外流れる雲あり流れぬ雲あり(小島なお『乱反射』)
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい(笹井宏之『ひとさらい』)
大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円(永井祐『日本の中でたのしく暮らす』)
アラビアに雪降らぬゆえただ一語ثلج(サルジュ)と呼ばれる雪も氷も(千種創一『砂丘律』)
収録:瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』左右社、2021