自宅の最寄駅である北千住駅は、4社5路線が乗り入れるターミナル駅だ。
乗り換え利用が多く、乗降客数ランキングは世界で6位とのこと。
以前住んでいたシェアハウスの大家にそんな話を聞かされたのが去年の11月。
すぐこの街に引っ越してきたので、半年弱はこの駅を中心に生活していることになる。
実際に通勤していると、なるほどたしかに利用者が多いのだなと感じる。
千代田線のホームはいつも人が溢れかえっており、一度に乗客が乗れないことも多い。
夏の頃はしんどかろう。汗ばむ体を密着させながら会社に向かうというのは、各々にとってつらいことだろうと想像する。
徐々に暖かくなりゆくこの季節に、うっかり後ろ向きなイメージを膨らませた。
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20代のほとんどを過ごした地方部では車移動が主だった。
冷暖房の調整は容易だったし、「汗をかいたら着替えればよい」という発想でシャツを何枚も持ち歩いてもいた。
「移動する個室であり収納である」というのは自家用車の魅力だよね。
電車通勤に戻って、身一つで戦っている感じがある。
“戻って”という表現をしたのは、かつて新卒で営業マンをしていた頃、千葉から千代田区まで通っていたからだ。
過去のキャリアを聞かれるとき、面倒で「大学卒業後すぐに茨城に移住しました」と説明することがある。
7ヶ月だけ働いた大手IT企業、そこでの経験は確実に今につながっているだろうと思う。でもいつもなかったことにしてしまう。
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職場。帰りがけ、昨年度までお世話になった方がいらっしゃった。
共通の知り合いの話題で盛り上がったあと、会話の締めに「まあ、あの人は話長いですからね」。
何気のないひと言だったし、実際わたしも大変に同意なのだが、やや気になるポイントだった。
どんな偉業を成そうとも、誰かにとって特別な存在として記憶されようとも、想起するときに「話の長い人」というレッテル込みだったら、それはなんだか悲しい。
わたしは「話の長い人」と思われることに恐怖をおぼえるようだった。この日記を書きながらそんなことに気づいた。
「仕事モード」で会話するとき、あるいは文章を書くとき、相手と前提をそろえるための前フリや説明が丁寧すぎる節がある。
「これから〇〇について話します」
「今日話したいことは○点あります」
「ここまで〇〇について話をしてきました」
「ここまでの話をまとめると〇〇ということですね」
それによってスムーズにやり取りができている、という実感はありつつ、「話が丁寧すぎる、長い」と思われたくないなあと不意に思った。これは心象の話です。
もう少し散文的でよいのかもしれない。どうせ言葉を重ねたところで、すべてを理解されることは決してないのだ。
多少やりすぎなくらいの散文を練習していこう。
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帰りもしっかり乗客を乗せた千代田線。知らない番号から着信があって出てみると