「ていねいな暮らし」と文化の下敷き(20181001)

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たとえば正月に凧を揚げるとか、そう。クリスマスにチキンを食べるとかも、そう。季節の行事を大切にすることの「豊かさ」みたいなものを良しとしたかった。

片田舎に引っ込んですぐの頃こそ、そういったイベントをしっかり追っていこうと努力していた。2月に味噌を仕込むとか9月に新米を食べるとかやっていた。世間的に「ていねいな暮らし」と言われるような行為をあらかたなぞった後、それらの「模倣感」になんだかウンザリしてしまった。生活がニセモノっぽいのだ。なんとも実態のない暮らしぶり。田舎の生活は今や想像以上にモダナイズされていたのだった。

時候の習わしに囚われず生きようと意識することで、逆にじぶんがどんな行事を恒例としているかがわかる。

フジファブリックの「赤黄色の金木犀」を聴きながら毎年10月のはじめに「残りの月」にすることを考えるとか、クラムボンの「folklore」を思い出して「強い台風の去ってった夜」に「高いビルの上」から街を眺めに出かけるとか。10月1日だからといって衣替えをするようなマメさはないが、薄着に少し肌寒い朝晩の風を受けながらTravisの”The Man Who”を聴いて秋っぽさを感じる、みたいなことは平気でやる。

暮らしの下敷きとなる文化がただパーソナライズしただけだ。なにかを模倣するような「ていねいな暮らし」で誰かの暮らしをトレースするより、じぶんの好きなこと/心地よい文化性を生活に反映させたほうがよほど充足感が得られるのではないかと思う。

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職場に料理上手かつ庭いじりの得意なマダムがおられて、自宅で採れたその時々の農作物を調理して振る舞ってくださる。

わたしは普段の食事にはとことん無頓着で、野菜ジュースとプロテイン、サバ缶とキャベツを食べ続けても飽きないような性分なのだが、この姉様の作る季節の料理が絶品で毎度舌鼓を打っている。

先般は「庭に転がっているの」と栗の渋皮煮を披露してくださったのだが、口の中でホロリと崩れた後、舌の上でとろける食味に感激した。栗はもう少し秋の深まる時期のものかと思っていたが、茨城における旬は今頃らしい。

食文化は誰にとっても季節を真に感じられるものだなぁ。

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