わかりそう、もっと話して(2022.06.04)

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「洗濯」と思って目が覚めた。

気温も上がり、それなりの風も吹くと知って昨日から洗濯欲が高まっていたのだ。

寝汗の湿っぽさと早朝のまぶしい日差しは、完ぺきに洗濯日和を物語っていた。

家中の布類をかき集めて洗濯機を回す。

「家中の」というのは誇張ではない。

ベットシーツやYogiboのカバーを含めて、これでもかというくらいに洗濯してやった。

バルコニーと居室のそこかしこに衣類をかけて家を出る。

 

・・・

 

「仕事を頼みたい」と声をかけられた。午前中はその打ち合わせに行く予定が入っていた。

週末の千代田線は平日とはちがう客層で、でもそれなりに混んでいる。

待ち合わせ場所のカフェに着くとしかし彼女はまだおらず、15分くらいぼんやり過ごすと威勢よくやってきた。

なにやら実体のわからない、ぼんやりした依頼だったがとりあえずお請けすることにする。

 

最近、また個人的に仕事を頼まれることが増えた。

ところで、周りにとってわたしはなにができる人に見えているんだろう?

文章を書いてほしいと言われれば書くし、写真を撮ってほしいと言われればカメラを持って馳せ参じる。

ただ話を聞いてほしいというケースもあれば、一緒に事業をはじめようと誘われることもある。

あんまり断ることをしないから、それゆえなんでも頼まれるのかもしれない。

なるべくならすべての期待に応えたいが、ひとりでできることは限りなく少ない。

 

そろそろ周りの力を借りながら、より大きな案件を手掛けていく頃合いかもしれなかった。

そうか、こうして人は会社を設立したりするのかもな……と思いながら具体的な行動はまだ起こせずにいる。

 

・・・

 

午後は下北沢。

BONUS TRACKで開催されているイベントへ。

「まちづくり」「編集」「デザイン」「本」「おいしいグルメ」な催しだった。

今後もう少し千住を、そして茨城を絡めて働きたいなと考えていて、それで興味を持ったこのイベントは“ローカルエディター”を主旨にしていた。

 

23歳のとき、地方の小さな街を良くすることに奔走していたころ、隣町の役場に勤める人がこんなことを言っていた。

「まちづくりは、世代や属性など様々なレイヤーに生きる人が、それぞれ好きなことをしていていい」

「おやじ世代のまちづくりと、せがれ世代のまちづくりが平行しておこなわれるような地域が理想的だ」

それは天啓というよりほとんど祈りのような形でわたしの心に残り続けている。

 

千葉エリアで一箱古本市などを手掛けるkamebooksさんと「津田沼パルコが閉店するなんて信じられないですよね」と話す。

この「信じられなさ」を共有することがまちづくりだと感じた。

 

・・・

 

2億年ぶりに代官山へ移動。蔦屋書店で鉱石の展示を見る。

わたしはおそらく、これまで鉱石というものをまじまじ眺めたことがなかったように思う。

規則的な結晶の過程で、ここまで整然とした天然物が生まれるものかと大いに楽しんだ。

 

そういえば幼い頃、下の弟が石好きだったなあと思い出した。

トパーズとかタイガーアイとかアメジストとか、そんな名前をよく憶えたもんだと感心した記憶がある。

 

一方妹はイヌに明るく、幼児期から難しい犬種をスラスラと言い当てていた。

高級住宅街である代官山は、それこそ見たことのないイヌがちらほら散歩している。

千住にはいないタイプのイヌ、そしてイヌオーナーを観察するのもまた面白かった。

 

・・・

 

同じく2億年ぶりに渋谷へ。

10人に1人はへそを出し、若者たちはレッドブルやドクターペッパーの缶を持ち闊歩する。

 

繁華街といえば池袋、そして新宿だったわたしにとって、渋谷はいつまでも慣れない。

学生時代、年に一度だけ渋谷のライブハウスで演奏することがあった。

それが割と特別感のあるライブだったし、それ以外に訪れることがほとんどなかった。

だから、渋谷のことをずっと別次元のなにかだと思っている節がありそう。

空腹を埋めるように中華料理を食べる。

慣れない街でも中華料理はうまい。

 

半日付き合ってくれた友人と点心を食べながら、身近な話題について話す。

話しているうちにいくつかの課題とその解決方法が掴めそうで「わかりそう、もっと話して」という無茶なオーダーを出した。

この世にはびこる大抵の難題は、じぶんが話すよりひとに話してもらうほうが解決しやすいように思う。

ところで、「わかりそう」というのは春先まで住んでいたシェアハウスの同居人がよく使っていた言葉で、口癖として完全に移ったようだった。

わかりあえない時代に「わかりそう」というアプローチは存外的確じゃないだろうか。

 

・・・

 

帰りの電車で、BONUS TRACKで買った日記2冊を読む。

『すねるように眠く』古賀及子

『個人的な三ヶ月 にぎやかな季節』植本一子

どちらもすごくよい。

「読まれるための日記を書く」という行為をわれわれはもっとしていくべきだと思った。

日記とは今日を昨日にしていくものだが、「読まれるための日記」は今日を明日に送るためのものだろう。しらんけど。

感化されて、こうして日記を再開している。

そういえば友人に、Googleドキュメントで日記を書いて公開している人がいる。あれも「読まれるための日記」だ。

 

・・・

 

家に帰ると、あらかたの洗濯物は完ぺきに乾き、Yogiboのカバーだけがしっかり湿っていた。

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