「人生はゲーム」についての世代観。

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すこし前、きれいに3世代に分かれた鼎談が開かれた。

わたしと、わたしの倍くらいの年齢になる先輩、わたしの半分くらいしか生きていない後輩。

そこへちょうどよく流れてきたのは南佳孝。

彼が「人生はゲーム」と歌っているのをきっかけに、さてこの言葉の意味は果たしていかなるものか、という話になった。

 

最も年上の人はゲームを「運と実力で勝敗を争うもの」と定義した。

そこには戦う相手がいる。勝ち負けはなんとも読めない。

「ゲーム」という単語からはトランプを想像するらしい。

実力で競いながら、最終的には運に左右される感じがまさに人生そのものだという。

 

据え置きゲーム機の勃興期に育ったわたしとしては、「ゲーム」と聞けば空にコントローラーを握ってしまう。

アクション、シューティング、育成、スポーツ…わたしが楽しんできたゲームは様々あるが、最もハマったのはRPGだ。

仲間を集める、強力な道具を手に入れる、じぶん自身を鍛える、ボスに挑む…工夫と努力次第で、誰でも英雄になれる。

また、そこには壮大なシナリオがあり、感動のエンディングが待っている。わたしにとってのゲームには、終わりがある。

 

年少の彼によると、ゲームとは「時間を買うもの」だという。

基本的にゲームとは無料で楽しめるものだけれど、非課金では他人より強くなれない。最大のネックは時間だ。

ゲームにお金をつぎ込めばつぎ込むほど、時間――本来それだけ強くなるために必要な時間が手に入る。

費やしたお金と時間の相関によって強弱が生まれるシステム、それが彼の考える「ゲーム」だ。

 

これ、めっちゃ興味深くないですか。

「ゲーム」に対する感覚は、この半世紀の間かなりドラスティックに変化したらしい。

 

南は「人生はゲーム」の後「誰も自分を愛しているだけの悲しいゲームさ」と歌っている。

この「ゲーム」とは一体どのような仕組みなのだろうなぁ。

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