わたしのデスクにはよく天使が寝ている。
2019年の梅雨、同い年の同僚が出産した。延々と続くかと思われた6月の長雨は案外スッと切れて、夏のいちばん暑い時期を越えたあたりから子どもを連れて職場に遊びに来てくれるようになった。まだ首も座らないそいつをわたしは恐る恐る撫でたりしていたが、3ヶ月を過ぎる頃にはすっかり慣れたもんだ。わたしが。赤子はいつだって我が物顔でそこに鎮座、いや鎮寝している。
仕事柄わたしは外出が多く、昼過ぎから夕方にかけてほとんど職場にいない。よく言えばフリーアドレス制、現実的には敷地面積不足な我が職場はその時々に応じてデスクの概念が変化する。わたしがよく座っているスペースも、わたしがいない時間は誰かがそこで作業を進めている。そして近頃はもっぱらベビーベッドと化している。座布団とタオルで作られた即席ベッドは不安感が否めないが、そこで威勢よく排泄している姿を見ると今やすっかり慣れたもんだ。わたしが。赤子はいつだって我が物顔でそこに鎮座、いや鎮寝している。
生後半年にも満たない彼がぐんぐん成長していること、毎日顔を見ているわけでもないわたしにもよく分かる。子どもの成長ってのはすごいや。まだ人間になり切れていないようだが、一つひとつの所作がますます洗練されていくのが感じられる。人見知りという感情も育っていないらしい、基本的に誰かにおとなしく抱かれている。彼を抱くとみなが笑顔になる。こりゃ天使だね。わたしは無宗教だし神や全能の存在についてはようわからんが、天使は存在すると思う。いつもオフィスで鎮寝してるからね。
更に驚くべきは母の成長です。前述した同僚が日に日に「母」になっていく。これまでも学生時代の同級生たちが結婚し出産するにつれ親になっていくようすを見てきた。しかしこの同僚に関しては長らくそういった感覚がつかめず(なぜだろう?)、「人はいつ母になるのでしょう?」などといった哲学的なことを考えたりもしていた。子を産むから母になるのか?母になるから子が産まれるのか?答えは前者であったようです。子の成長と共に親も育つんやね。同じ年齢の同僚が母性を花開かせていくようすを共通の友人たちと見守りながら、結婚すらほど遠いわたしたちは「母」とはなんたるかを知る。これはほんとうにすごいことだよ。
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とまぁこんな感じでアラサーを迎える頃には、家庭や仕事の状況が人により大きく変わってくるようだ。学生時代は似たような感じで過ごしていても、就職や転職、結婚、出産、マイホームの購入や海外赴任など…とにかくいろんな節目を過ぎるごとにそれぞれの境遇はことごとく異質なものになっていくらしい。そしてそれがはじめて顕在化するのがアラサーというタイミングなのではないだろうか。
気づけば仲の良い友人コミュニティが、見えないうっすらとした膜で分断されているのに気づく。それがおそらく境遇のちがいです。今はまだ「なんとなく価値観が合う」「じぶんとまるでちがう考え方だな」などと相手の意見に対する感じ方が色づいてくる頃だ。やがてこのちがいは年齢を重ねるにつれ大きくなっていくんだろうなぁ。節目をどう迎えて、どういう境遇に置かれているかはますます変わりゆくのでしょう。
アラサーくらいになると、そのちがいとやらが特に目立つのは恋愛観じゃなかろうか。学生時代の恋人とゴールインしてふたりあるいはそれ以上の家庭を築く、毎週末クラブに赴き「昨日まで知らなかった人」と朝を迎える、現実世界は一旦諦めて文字通り「異次元」の恋人を愛する、などなど…「あの頃は足が速いだけでモテた」みたいなかつての共通認識が通用しないワールドに突入してしまう。それがアラサーというやつなんじゃないですかね?しらんけど。
わたしの周りは当時「恋愛上手」だった友だちが多い。だから現在のSNSは夫婦旅行の写真や子どもの成長記録であふれています。その割合は年を経るごとにじわじわと増えていて、孤独な自炊写真や飼っているハムスターのようすなどをInstagramに投稿するわたしなぞはそこそこ浮いている(料理に罪はない)(ハムスターはかわいいです)。
なので、境遇によっては「アラサーの恋愛」とは無縁の人が一定数いるんですね。なぜならアラサーを通過する前に、誰かに恋することから卒業してしまうから。でも、アラサーの恋愛はめちゃめちゃおもしろい。わたしはそう思います。大学を卒業した5年前のあの頃は想像もし得なかったカオスが待っている。もちろんそれらに賛否はあるでしょう。でも、それは境遇による感性のちがいです。「あなたがそれでいいのなら、いいんじゃない」そんななんでもありな色恋沙汰を否定できないのがアラサーの恋愛ではないだろうか。
さて、アラサーの恋愛を体感するのにオススメの映画があります。
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『南瓜とマヨネーズ』は漫画を原作とする2017年の映画です。
夢を追いかける恋人せいいちと、忘れられない昔の男ハギオとの間で揺れる女性ツチダの繊細な心情を痛々しいほどリアルに描いた漫画家・魚喃キリコの代表作『南瓜とマヨネーズ』。当時のストリートファッションとカルチャーを牽引した雑誌『CUTiE』から派生した、『CUTiE Comic』(共に宝島社)にて1998年から1999年にかけて発表され、90年代の感度の高いユース・カルチャーのバイブル的存在となり、以降も愛され続けてきた。脆くこわれやすい日常が、あたりまえに続いていくことの大切さを説くこの恋愛漫画の金字塔を、『パビリオン山椒魚』(06)、『乱暴と待機』(10)、『ローリング』(15)で知られる鬼才・冨永昌敬監督が実写映画化。(公式HPより)
わたし漫画は読んでないんですけど、本作を観てぜひ他の作品も含めて読んでみようと思った次第。
あらすじ
ライブハウスで働くツチダは同棲中の恋人せいいちがミュージシャンになる夢を叶えるため、内緒でキャバクラで働きながら生活を支えていた。一方で、自分が抜けたバンドがレコード会社と契約し、代わりにグラビアアイドルをボーカルに迎えたことに複雑な思いを抱え、スランプに陥っていたせいいちは、仕事もせず毎日ダラダラとした日々を過ごす。そんなとき、ツチダはお店に来た客、安原からもっと稼げる仕事があると愛人契約をもちかけられる。
ある晩、隠していた愛人からのお金が見つかってしまい、ツチダがその男と体の関係をもっていることを知ったせいいちは働きに出るようになる。そして、ツチダが以前のようにライブハウスだけで働きはじめた矢先、今でも忘れられない過去の恋人ハギオ(オダギリジョー)が目の前に現れる。蓋をしていた当時の思いが蘇り、過去にしがみつくようにハギオとの関係にのめり込んでいく。(公式HPより)
上記を読んでいただければ話の大筋は分かると思います。いわゆるダメ女とダメ男の話です。
主役3者の関係性がもうとにかくダメ。休みなく働き、挙げ句身体を売ってまでミュージシャンに貢ぐ女、理想の音楽を追求するあまり迷宮に陥りヒモニート生活を送る男、気の向くままに異性を抱いて夜をふらつくチャラ男。この要約だけでもダメすぎる香りが漂いますが、劇中で描かれるディティールもまたひどい。でもいいんです。アラサーの恋愛を誰が否定できようか。
ちなみに本作に登場するその他のキャラクター、彼らもだいたいダメっぽいです。なんかもうこのへんは詳細を記すのもアホらしくなるくらいダメすぎる。足が速い男子が輝いていた時代が浮かばれますわ…(ちなみにわたしもそこそこ足が速かった部類なのですが、当時全然モテなかったのでこの理論は眉唾)。でもいいんです。アラサーの恋愛を誰が否定できようか。
さて、この映画を紐解く上で重要なのは「じぶんの人生における主役は誰か?」かなぁと思いました。
ツチダは彼氏のせいいちに希望を見ている。彼の歌と作曲に期待して、それこそじぶんの生活のすべてをそこに委ねている。ライブハウスで働きながら水商売を掛け持ちして二人分の生活費稼いでるツチダは、じぶんの人生という物語の中心にじぶんを置いていないようです。言い換えれば、じぶんの人生の意義を彼氏に押し付けている構図ですね。案の定せいいちはそれに嫌気が差してしまう。
せいいちは本来あるべき音楽像を実現できないことに苦しむけれど、それはツチダの期待が大きすぎることも要因にあったのではないか。同棲相手の期待が毎日、強く強く寄りかかってくる中で、果たしてじぶんの音楽が実現できるだろうか。いつも散らかるツチダとせいいちの部屋は、そのわだかまりが具現化しているように見えます。せいいちがニートを脱却することから物語は動き出すけれど、これは典型的な相互依存の関係にあったのかもしれませんね。ダメ男は作られる。そしてダメ女もまた作られるのです。
人生の物語性を考えると、ハギオの存在もまた興味深い。彼は過去に抱いた女をほとんど憶えてないようです。偶然ハギオを見かけたツチダは中2の女子さながらときめいてしまうけれど、ハギオはやっぱり彼女を憶えていない。「私、ハギオの子ども妊娠したこともあるんだよ」と話すツチダに「お前とそんなにヤったっけ?え、堕ろしたの?ありがと〜!」ってお前おい…ハギオは相手の人生にまったく期待しないし、寄りかからない。それがお互いの人生の交錯に苦しむツチダとせいいちの関係を一層引き立てています。ハギオの場合はじぶんと相手の人生にそもそも物語が生まれない。だから主役も何もないんだけど、これは結構特殊かもしれんね。
字面だけ見ると「これでいいのか?」と疑問を抱いてしまうけれど、劇中の彼らは彼らで結構楽しそうにやっている。終始あんまり幸せな描写はないんだけれど、でも不幸感に苛まれているわけでもない。だからきっと、それぞれ納得してたり満足してたりするんじゃないかな。「あなたがそれでいいのなら、いいんじゃない」そんなアラサーの恋愛における真髄みたいなものを感じる。
わたしたちはもう終わっているのかもしれない。
でも、わたしたちにはこの部屋のほかに行くところがない。
わたしたちにはお互いしかいない。
劇場版のキャッチコピーが、視聴後にはまたちがう意味を持つように感じられる。アラサーの恋愛は、アラサーのあいだしか体験できない。青春時代とちがって、それを体験できない境遇の人もいる。浮気、不倫も「あなたがそれでいいのなら、いいんじゃない」に近いものがあるかもしれませんね。いやでもそれで不幸になる人が現れるかもしれません。決して自らの都合で不幸な人を生まぬように。アラサーの恋愛が知りたければ、まずはぜひ本作をご覧ください。
結婚して子育てと共に自らも成長していく同世代の友だちを見ながら、それは本当にすばらしいことだなぁと感じてる。でもね、アラサーになってからしてみる恋愛ってのもまたいいものだよ。
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物語だけ追うとなかなかな進行だけれど、これらを支えているのは豪華キャストの名演技だと思いました。
オダジョーのチャラ男演技、惚れ惚れするほどに完ぺき。臼田あさ美が好きな人を見てるときの喜び具合、目の色、隠そうとしても全身に現れちゃう「好き!」の仕草が天才的。太賀はこのとき結構若かったんだなぁ。歌声が素敵です。
音楽をやくしまるえつこが担当しているので、これもまたアラサー狙い撃ちじゃないでしょうかね。
最近は意識的に映画を観るようにしています。平日夜もすごい速さでやること終わらせてテレビにかじりついてる。文化に触れるとMPが回復するよね。オススメの映画を教えて下さい。