思えばあの頃が最もクリアに物事を考えていた時期かもしれない。

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ひどい寝不足を感じながら今日をはじめた。夜明け前まで本を読んでしまったのが原因です。

『暇と退屈の倫理学』。丁寧な論理と易しい言葉で、いまなお強い人気を博する哲学書だ。
むかし一度読んで、ふと読み返したくなったのが昨夜。気づくと4時だった。

恐ろしいことに、「本書は一息に通読されることを目指して書いており」という一文がある。
「一息に」とは、本を一度開く間にすべて読み切るということではないだろうが、生真面目な読者であるわたしは、素直に脇目も振らず読もうとしたのだ。

ゆっくり起きて、国語教師の友人から届いていたエッセイにコメントを返す。

彼は、隙あらば自分の書いた文章をLINEで送ってくる。そして感想を求める。
「詩歌や評論、エッセイなど、いろんな種類の文章を書いていきたいんだ」と話す表情はいつも明るい。

今回共有されたエッセイ「処理的に生きるということ」もまたおもしろい文章だった。
これがフックになって『暇と退屈の倫理学』を読み返すに至っている。
「処理的に〜」は1分で読める。『暇と退屈の〜』は、少なくとも三夜は必要だろう。短い文章ながら、とんでもない影響力だ。

こういうふうにして、人の行動に影響する文章こそ意義があるのだと思う。
国語教諭の彼はいい加減ブログをはじめたらいいのに……

 

そんな彼とは、月に一度ほど時間を合わせて、読んだ本や最近の関心ごとについて話している。
家が近いのもあって、「今日暇?」という流れから1時間くらいお茶することもある。

来週わたしが引っ越したあとも、気軽に連絡の取り合える関係でいられるだろうか。
知的好奇心について語り合える友人は本当に本当に貴重。

 

・・・

 

そうだった。月曜日には居を移すというのに、まだなにもしていない。

入居先であるシェアハウスのLINEグループに招待いただいた。これでようやく住所がわかった。歓迎会をしてくださるらしい。引越し後すぐに、まちあるきのイベントもあるそうだ。

キャリーケースひとつで一旦の住環境を整えよう。ハードはあとからいくらでも調整できる。まずは身を馴染ませるべきだ。

 

今回の引っ越しには漠然とした期待がある。移り先の家や地域、というよりは、環境を変えることでわたし自身がより良く、おもしろくなるだろうと思う。
「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を理由に芥川はこの世を去ったけれど、30歳を迎えて以来、わたしはどんどん生きやすくなっているように感じます(この話は以前書いた)。

 

・・・

 

木曜日の仕事は賑やかに過ぎる。

大きな波を越えたいま、わたしたちは会議のデザインについて改めて真摯に向き合っていくべきかもしれない。
もはや「リアルとバーチャルのファシリテーションはちがうよねえ」「オンラインの会議はむずかしいねえ」としみじみしている場合ではないようだ。

これ以上ブルシットなジョブを増やしてはならないと思いを強くした。

職場のある丸の内は毎晩いいムード。イルミネーションを観に来る人は昨年よりぐっと増えている。
ハリー・ポッターとコラボした丸ビルのクリスマスツリーにも連日多くの人が押し寄せ、タイミングによっては身動きがとれないレベル。やめて、これ以上わたしを写真の背景に収めないで。

みなさんの想像よりずっと多くの「Harry’s Wondrous World」を聴いて過ごしています。名曲だねえ。

 

・・・

 

深夜と呼んでいい時間に帰宅。千葉雅也氏の『アメリカ紀行』を読んだ。

サバティカル(学外研究)を利用して、ハーバード大学に4ヶ月間滞在した千葉氏のアメリカ滞在記。散文的な紀行文の中で、日米の文化比較や性的指向を哲学する。
哲学者の視点で見たアメリカを短い文章と写真で表現するこの一冊を、千葉氏の著作の中でも特に好きになった。

 

 アメリカ。広い空間を、大柄な男たちがどっかどっかと歩いてくる。僕の性的な感覚は、アジア人のコンパクトな体に結びついていた。たぶんこの土地に慣れていくうちに、エロスのあり方もいくらかは再構築されるのだろう。

モールのスターバックスで、だいぶボリュームがあるバジルソースのチキンのパニーニとアイスコーヒーを買った。名前を聞かれる。Masaya と答える。訊き返されたのでスペルを答える。エム・エー・エス・エー・ワイ・エー。そして大きな声で、公衆の面前で、ファーストネームを呼ばれる。

(千葉雅也『アメリカ紀行』文藝春秋、2019)

 

コンビニでは、人が非人称になる。「なる」というか、非人称に「戻る」場所である。それは「清める」ような作用をもつ場所だとも言える。すべてがリセットされ再開される聖域としてのコンビニ。駆け込み寺のような。

僕は日本の生活のなかで、コンビニとか、和食の儀礼的リチュアルな面などから、自覚せずに「聖なるもの」を補給していたのだと気づく。異国に来て、それが補給できなくなっている。

(千葉雅也『アメリカ紀行』文藝春秋、2019)

その後の作品を読むと、この「暮らしを書く」取り組みが千葉氏にとっては考えの整理につながっているのだろうと思う。彼のTwitter( @masayachiba )はまさにそのような形で運用されている。

 

そういえば、以前わたしは前日の日記を一晩寝かせて「昨日の今日」というnote.マガジンとして更新していた。
日中に地方で空き家再生、夜は都内某所でWebライターの取材というデュアルライフや、2ヶ月間毎晩だれかと食事を共にする外交期間(?)の最中。地方と都心を延々往復する中で、一昨日の記憶すら曖昧になりつつあった頃の延命策だった。

思えばあの頃が最もクリアに物事を考えていた時期かもしれない。
そんなことを思い出して、ふと日記を書いてみようと思ったのでした。

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