無駄に怒らないために。「自責マインド」の話。

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相手を頭ごなしに怒ったり怒鳴ったりして解決することはどれだけあるだろうか。
じぶんの身の回りにおいて、物事の起こる原因は2つしかない。

自責か、他責か。

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こないだこんな話を耳にした。

「子どもが言うことを聞かない」

なんてことを育児中の親はよく言うけどさ。
ちょっと良く考えてみようよって私は思う。

なんでオモチャを片付けないのか?
遊びに夢中で疲れちゃったんじゃない。

なんでお風呂に入らないのか?
こんな時間だよ、きっと眠いんだ。

小さくたって人格をもったひとりの人間だよ。
子どもの行動には理由がある。

その理由が親の側にもあることを想像できるかい。
遊ばせすぎてないか?夜ふかしさせてないか?
彼らが言うことを”聞けない”理由はじぶんにないか?

 

この話を聞いて非常に納得感があったのです。

「常にじぶんに原因がないか考えるクセをつけなさい」

大学生のころアルバイトをしていたバーの師匠から教わったことだ。
それからずっと、わたしの仕事観はこれを中心に成り立っている。
先の話は、このことばにリンクするものがあるように感じました。

 

起こることの原因がじぶんにないかを優先して考えるスタンス。
“自責”のマインドでいることはけっこう大事だと思う。

  • 無駄な怒りを発しなくて済む。
  • 暴力的な解決手段を用いる必要がない。
  • 次に似たようなことが起こったとき、じぶん主導で解決に向かえる。

自責マインド、いいことばっかりですわ。

“イキ”れない思春期

幼い頃から他人を怒ったり非難することが苦手だった。

ひどくシャイな幼少期を過ごした所為もあるかもしれない。
ケンカして相手を泣かせてしまった後、引け目を感じてじぶんもオイオイ泣いてるような子だったような気がする。
「コイツが全部わるいんだ」って堂々としていられない性分だった。
そんなじぶんはちょっと女々しいのかな、とも感じていた。

 

思春期の頃から、男子諸君は一様に”イキり”始める。

言葉遣いが悪くなる。 態度が横柄になる。 “マジメ”じゃないことがカッコよくなる。

全員がそういうわけじゃなかったかな。
それでも、比較的多くの男子は先んじて”イキり”始める友人に影響を受け、言動が変わっていく。
もしかしたらそういう時代だったのかもしれない。マイルドヤンキー創成期みたいな。
あるいは、いつの時代の子にも訪れる”世代観”みたいなものだろうか。

 

思春期の”イキり”は自責マインドだけでは成し得なかった。

おまえが悪い、組織がわるい、社会がわるい。

これは“他責”だ。

じぶんの落ち度は認めず、あくまで相手に原因がある。
だから仕方なくグレているんだという正当性が、若いわたしたちには必要だった。

 

(ごくたまに圧倒的な正義の元に”イキ”ることのできる折り目正しいヤンキーがいたが、彼らは特別な訓練でも受けていたのだろうか…)

 

とはいえやっぱりわたしは理不尽な”他責”が苦手だった。
これ、絶対じぶんに非があるよな…というときは素直にごめんなさいしていたし、「今日はアレがダメだったな。次は気をつけよう」と自己嫌悪に苛まれる夜を何度も過ごした。
当時の日記とか読み返すと、それはもう凄まじい自己分析と改善案の羅列。始末書を読んでいるみたいだ。

 

周りの友人たちが他責マインドでストレスフリーに暮らしているなか、じぶんは事あるごとにじぶんの責任ばかり考えて悶々としている。
しばらくの間、これにしんどさを感じていた。

気にならなくなったのは冒頭に話したバーテンの師匠とのやり取りの後だ。
あぁ、これ別に悪いことじゃないんだな。
そう思えるようになってからは、自己嫌悪が“自己研鑽”に変わりました。

自責マインドを意識しはじめてから、年を経るごとにさまざまなことがちょっとずつ良くなっていく実感がある。

自責マインドはしんどくない

最近またこの自責マインドに通づる考えにふれることがあった。
幻冬舎・見城徹さんの著書『読書という荒野』
冒頭から見城さんのマッチョな意志に圧倒させられる。

 僕はかねがね「自己検証、自己嫌悪、自己否定の三つがなければ、人間は進歩しない」と言っている。自己検証とは、自分の思考や行動を客観的に見直し、修正すること。自己嫌悪とは、自意識過剰さや自己顕示欲を恥じ、自分の狡さや狭量さ、怠惰さに苛立つこと。そして自己否定とは、自己満足を排し、成長していない自分や、自分が拠って立つ場所を否定し、新たな自分を手に入れることだ。

僕は今でも、毎日のように自己嫌悪を繰り返している。(中略)いつも寝る前には、その日一日を振り返り、悶え苦しむ。そして、その苛立ちを振り払うかのように、トレーニングで身体をいじめ抜いたり、経営や編集の仕事に没頭したりするのだ。

(中略)しかし現状に安住し、自己検証と自己嫌悪と自己否定を忘れるようなことがあれば、生きている価値がないとさえ思う。自分が駄目になっていく恐怖、老いていく恐怖と常に戦ってこそ、僕は僕であり続けられる。

引用:『読書という荒野』見城徹(2018・幻冬舎)

さすがにここまでの力強さはわたしには無い。
ただ、このしたたかな姿勢には奮い立たされた。

背を向けず受け止める姿勢

自責マインド論を展開すると、まるで自身に重い負荷をかけながら成長を期待するかのような、ハードな筋トレを想起させられるかもしれない。
でもそれはちょっとちがう。

他責に頼らず、常にじぶんに改善点がないかと考え続ける姿勢だとわたしは考えている。

 

また、これが大事なポイントなのだが、なんでもかんでも自責で片付けるというわけではない。
物事を冷静に判断して、今こうなっている訳は果たして何であるかを覚めたアタマで考え続けるのだ。
その上で、もしじぶんに原因があると思ったとき、背を向けずに素直に受け止めることができるか。

 

あるいは、他責マインドとは思考停止してただひたすらに相手を非難するということかもしれない。
それでは無駄な争いや余計な怒りが発生してしまう可能性がある。
なんてもったいないのだろうと思う。
もっと良いことに時間と労力を遣っていこうぜ。

おわりに

自責マインドの話はこれでおしまいです。
いちばん言いたかったのは「みんな無駄に怒ったり怒鳴ったりするのやめようぜ!」ってことですわ。
なお、自責マインドを相手に求めだすと他責思考になるというロジックがあるのでそこは注意です。

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